1. イロイロな「色」のはなし

イロイロな「色」のはなし

最終更新日:2013.09.26

はじめに ~世界は色に満ちている~

私たちの身のまわりには様々な「色」があります。驚いた事に、人間の目には約10万色以上の色を見分ける能力があるそうです。ここで「目」としましたが、実は色を識別しているのは「脳」なんですね。「色」にはこのような科学的な側面と、国や民族によってとらえ方が異なる文化的な側面があります。今回は文化的側面からみた色の話です。
私達が、ここ沖縄で見て感じている「色」は、必ずものづくりに影響があるはず。染織品の「色」から、琉球人たちの美意識を探ってみましょう。

 

「玉色」の謎に迫る ~水色?緑色?~

当博物館には、1478年、明の皇帝から尚真王へ贈られた「勅諭」(重要文化財)があり、王と妃にプレゼントする絹織物が記されています。そこある「羅 玉色二匹」、さらにその中の「玉色」に注目してみました。私達はこの色名を「タマイル」と呼んでいます。この「玉色」はいったいどのような色なのでしょうか。

写真1)重要文化財「勅諭」

写真1)重要文化財「勅諭」

王国時代の古文書15件から「玉色」を抜き出してみると、1.男性の朝服の色 2.紅型や絣の色 3.踊衣装の色 4.伝馬舟の帆の色 5.舶来染織品や焼物の色などの事例がありました。古文書には色相は書いていないので、文面から判断すると、どうも水色のようです。また、『琉球官話集』の「宝藍色」の部分には「玉色」と、沖縄語の意味が書かれているようで(池宮正治『言葉の散歩道』1993年)、これからも青系統の色だとわかります。しかし、中国の伝統色を示す論文(李應強『中国服装彩色史論』1992年)では、玉色は「青緑色」と白に近い緑色が示されており、何が正しいのか混乱してしまいます。

中国、明代の文献(『天工開物』)を読むと「玉」は「白と緑だけ」と解釈されており、どうやら尚真王が頂戴した「羅 玉色」は薄い緑色だった事がみえてきました。

では、どこで、薄い緑色が水色に変わったのでしょうか。それには、もう少し探究の時間が必要ですが、一番は、琉球人の色相感覚が関わっているように思います。琉球では、黄緑~青紫までを「オール」と表現します。その感覚が、このようなことを生んだのでしょう。

写真3)『散形付并似例

写真3)『散形付并似例

工芸のヒントは、先進国に学べ! ~王国時代の染物文書の「色」から~

昨年、琉球王国の染物について書かれた古文書『散形付并似例』(1793年:国宝/那覇市蔵)を調べる機会がありました。そこには、紅型の材料と経費(染め賃も含む)や、紅型の「色名」が書かれています。私たちがよく知っている「赤」「黄色」「茶色」「藍」「紺」「鼠色」などとともに、「老米色」「月白」「玉色」「天青色」「豆色」「ふけ」などの聞いた事の無い色名がありました。また、「くり梅」「唐茶」「鶯」「柿色」「土器色」「吉岡」など耳にした事はありますが、現在、紅型の用語として使われていない色名も出てきました。調べてみたら、「老米色」などは中国色名、「くり梅」などは日本色名でした。「ふけ」は今も紅型では「ブキ」と呼ばれる色名だと思われますが、どこの言葉か不明です。日本色名は、古くからある色名と江戸期以降に新らしく誕生した色名がみられます。

  • 写真3)『散形付并似例

    写真3)『散形付并似例

琉球の感性による工芸品づくりを目指す!

王国末期(19世紀)の紅型の色を松坂屋コレクションや当館の所蔵品で調査してみました。すると…、「くり梅」「唐茶」「土器色」など茶系統、「鶯」などの緑系統の色相が減り、青系統のバリエーションが広がっていることが分かりました。また、「吉岡」と呼ばれる黒、「鼠」も色名としては使われておらず、地色としては殆どみられなくなっています。 さらに、王国時代から続く紅型の城間家で使われる色を調査してみると(琉球大学資料館にて)、「クチバ(朽葉)」(日本色名)など、本来の色相から随分変化した色がありました。 

写真4)クチバ色(右は本来の朽葉色 左は紅型のクチバ色)

写真4)クチバ色(右は本来の朽葉色 左は紅型のクチバ色)

さらに、王国時代から続く紅型の城間家で使われる色を調査してみると(琉球大学資料館にて)、「クチバ(朽葉)」(日本色名)など、本来の色相から随分変化した色がありました。



 

主任学芸員 與那嶺一子

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